私たちは他者の望みを満たすために存在しているのではない
この言葉が私を救ってくれました。
生徒の成長のためにベストを尽くすという目標を達成するために戦った4年間でしたが、うつ病になり、
ベッドの上で「私が間違っていたのか」「私が悪いのか」と自分を否定することを繰り返していました。
しかし、それを認めたら先輩や上司を肯定することになることは許せませんでした。
そんな葛藤の中、この言葉に出会ったのです。
アドラー心理学を紹介している「嫌われる勇気」からの引用です。
他者の顔色を窺い、他社の望みを叶えるようにいきるという生き方もあるでしょう。
では、他人からの承認を受けるために坂道を転がり続けるのか?
転がる石のように自らを摩耗させ、かたちなきところまで丸みを帯びていくのか?そこでできあがった球体は「ほんとうのわたし」だといえるのか?そんなはずありません。
「変えられるもの」と「変えられないもの」を見極めるのです。
われわれは「なにが与えられているか」について、変えることはできません。しかし、「与えられたものをどう使うか」については、自分の力によって変えていくことができます。
だったら「変えられないもの」に注目するのではなく、「変えられるもの」に注目するしかないでしょう。わたしのいう自己受容とはそういうことです。
私は、横の関係を貫いたからうつ病になり、体と心が停止してしまいました。
上司や先輩は変えられません。
しかし、変えようとしました。
「私が正しい」という正義漢にとらわれていました。
アドラー心理学によって、私の「至らない点」と私なりに「認められる点」がはっきりしたのです。
自分のことについての理解が深まっていきました。
そうすると、足かせや重りがふっと軽くなり、浮上が始まりました。
ありがとう、アドラー!